わけあってここ最近毎日1本映画を観ている。
ということで、まずはこれを観た。観るのは2回目
感想
裁判っていう重ための題材を取り扱うのにあたって、この映画が意識しているのは「重くなり過ぎないようにする」ってところだと思う。
シリアスになりそうな場面でも、次の展開にいく前に小ネタを挟んだりして(例えば難波と西村が小川母の為にある決意をする場面とか)できるだけ喜劇調にしようとしている。
ところどころに笑いを挿入することで映画全体をどこか緩めの雰囲気にしている。
こういう工夫があるから「裁判ものだから真剣に観よう」となるわけではなく、特に肩肘張ることもなく気楽に観ることができる。
しかし逆に軽すぎないようにもしているな……とも思った。
随所に価値観を揺さぶってくるような描写からそう思いました。裁判を傍聴している人達が裁判に影響を与えることができるのか否か……など、観ていると真剣に考えこんでしまう問題提起をする場面もある。
そして難波の似非脚本の仮想裁判「愛することは罪ですか?」など……ギャグ描写に見えて「あの判決はどうなるんだろう?」とちょっと考えこんでしまう難しさもある。
正直、どちらかに寄せたほうが映画としての伝達度は上がった気がする。少なくともオチに関しては肩透かしを食らう人も多いと思う。僕も1回目の視聴はそうだった。
しかし、今ならば「真面目でも不真面目でもない雰囲気」にした理由をなんとなく推測……というか勝手に予想することはできる。
なぜこんなふうにしたのか……ある仮説を立ててみました。
この映画が表現したかったのは「裁判」そのもの
この「重すぎず軽すぎない」という映画構成は「裁判」を象徴ではないか?
……そんなふうに思うんですよね。
「重すぎず軽すぎない」を「真面目なんだけど、どこかいい加減」というふうに言い換えることもできますよね。
この映画の中でも「同じ不完全な人間である裁判官が人を裁いているんです」と言ったりして……言外に「決して裁判はぜんぶがぜんぶ真面目で正確なものではない」ということを主張しています。
本来、非常に真面目なものであるにも関わらず「なんか面白そうだから」という気持ちで傍聴することができてしまう。傍聴マニアなんて不躾な存在すら現れてしまっているということも作中で主張しています。
こんな空間のどこが真面目一辺倒なんでしょうか? 神聖な場だといえるのでしょうか? というひねくれた疑問をうすーく引き伸ばして、映画の中に仕込み続ける……これこそがこの映画の肝だと思うのです。
裁判なんて重たいものでも、軽いものでもないじゃないか!! という主張を映画の構成全体で表しているのではないかなーと考えてみますがいかがでしょうか。
だからこそ、真面目に劇的ではなく肩透かしで軽く笑えるようなオチなのです。なんだよこの「重くも軽くもないオチは!」という思いこそが、「裁判そのもの」への思い……というのは考え過ぎでしょうか。
そしてラストの「だって他人の人生だし」とセリフは秀逸すぎた。
僕も同じくそのとおりだなーと思ったのですが……この考えを裁判関係者が抱いていないとも限らないよなーと……思ったことから、
「この映画の全体の雰囲気」=「裁判そのもの」という仮説を立ててみました。
そしてこれらは現行される裁判制度は本当に正しいのか? という疑問または主張に結びつくのではないか? と思いました。
声を荒げるのではなく、ゆるやかに「なんかおかしくね?」と言っているのではないか? と思ったのですが……いかがですかね?
あくまで僕個人の主張なので、正しいかどうかは知りません。
けど、なんかそんなふうに考えても面白いなーと思ったんです。
バナナマン・設楽統ファンなら絶対必見!!
まあ実際のところ僕がひとつだけ確証をもって言えることは、
バナナマンは最高のお笑い芸人。それだけですよ。
はっきり言って、僕の大好きな設楽統が出ている時点で、冷静にこの映画の評価を下せている自信がない。贔屓目で観ているのは間違いない。
正直、設楽統が画面上で動いているだけである程度の満足感はある。
この映画、かなり設楽さんがそのまんま出演している感じがして、観ていてニヤニヤしてしまった。
設楽及びバナナマン好きなら必見である。
日村さんはもちろん、スカイラブハリケーンとかランチランチとかも地味に出てて、バナナマンフリークとしてはそれだけでも十分楽しめる作品である。
バナナマンよく知らないって人はこれから観るのがオススメですよ。
コントもフリートークも素晴らしい芸人です。